自著を語る

中村未来『戦国秦漢簡牘の思想史的研究』(大阪大学出版会、2015年11月)

 本書では、従来、取り上げられることのなかった中国の戦国時代から漢代にかけての新出土竹簡資料を対象として研究を行いました。その結果、第一に戦国期の楚地(中国南方の地)と強く関連する文献である「上博楚簡」「清華簡」を考察することにより、楚が古代の聖賢故事や経書等、中原(古代中国における黄河中流域の中心地)の思想を積極的に受容すると同時に、それとは異なる独自の歴史観や上帝・鬼神観、呼称明記の表現方法をも合わせ持ち、両者を融合させながら活用していた状況が明らかになりました。また第二に、出土地(山東省臨沂県銀雀山漢墓)が明確な「銀雀山漢簡」を考察したことで、これらの文献が特定の学派に偏ることのない、極めて実用的視点を重視した内容であったこと、『孫子兵法』『孫臏兵法』等の兵書に加え、睡虎地秦簡『為吏之道』や岳麓秦簡『為吏治官及黔首』等のように、役人のための教材と考えられる秦簡と関連する政治思想を有していたことが明らかとなりました。
 本書において、「上博楚簡」「清華簡」(楚系文献)のみならず、成立時期が僅かに降る「銀雀山漢簡」(斉地出土)を検討することで、楚・斉地の思想文献の差異が明確になるとともに、戦国期から秦、漢代に渡る統治者及び役人に求められる政治思想の類似性と変遷を明らかにすることができたと考えます。

 

草野友子『中国新出土文献の思想史的研究』(汲古書院、2022年1月)

 本書は、1990年代以降に発見された中国新出土文献のうち「故事」「教訓書」類の古佚書を取り上げ、その成立と展開、思想史的意義を解明しようとするものです。 序論では、まず新出土文献の研究状況・研究目的・研究方法について述べ、続いて文献釈読に関わる二つの問題、一つは竹簡の誤写に関する問題、もう一つは「王」の呼称の問題を検討しました。第一部では、上博楚簡の楚国故事六篇を取り上げ、楚国故事は楚の太子や王族貴族の子弟を対象とした教戒の故事集と考えられること、戦国時代にはすでに教訓書として意識的に編纂されたことなどを明らかにしました。第二部では、魯・斉・晋を舞台とする上博楚簡の故事を取り上げ、これらはいずれも伝世文献との重要な相違点が見られる文献であり、伝世文献はあくまで一側面を映し出したものである可能性が高まったことを指摘しました。第三部では、戦国時代の周の昭文公の共太子に対する教訓書である北大漢簡『周馴』と、女性向けの教訓書である北大秦簡『教女』を取り上げ、前者は儒家の傾向が強い文献であること、後者は前漢劉向『列女伝』や後漢班昭『女誡』よりも早くに成立した女訓書であり、ある特定の思想や学派の影響が強く見えるものではなく、儒教的女性観とも異なることなどを明らかにしました。
 一見、難しそうですが、本書で取りあげている故事・教訓書から様々な人物たちの思惑を読み取ることができ、現代においても非常に示唆に富むものとなっています。(2023年6月、第17回立命館白川静記念東洋文字文化賞奨励賞を受賞。)

 

湯浅邦弘『竹簡学─中国古代思想の探究─』(大阪大学出版会、2014年5月)

 今から約100年前、中国甘肅省の敦煌莫高窟で大量の古写本が発見されました。スタイン、ペリオなどの調査、収集により、世界的な敦煌ブームが起こり、これらの古写本を使った研究は、やがて「敦煌学」という新たな研究分野を切り開きました。
 現在、次々に公開されている竹簡資料もそれに匹敵するような衝撃を学界に与えています。ただ竹簡そのものは、漢代に、書写材料として紙にその座を奪われて以来、その存在自体が分からなくなっていました。日本の学界でも竹簡に対する認知度はまだ低い状態です。そこでこの書では、「敦煌学」に続く新たな研究分野として「竹簡学」の必要性を訴えたいと思いました。「竹簡学」というタイトルはこうした気概を込めた命名です。

 

 

研究生活に関わるコラムなど

湯浅邦弘「孔子廟と焚書坑儒」

 はじめて台湾に留学した時、台北市内の孔子廟を参観しました。中国曲阜のそれに比べるとこぢんまりした建物ですが、とても印象深い造形だったので、今でも鮮明な記憶が残っています。
孔子のみたまを祭る孔子廟は、魯の哀公が孔子生前の居宅を廟として祭祀したのに始まり、漢代以降、歴代皇帝によって整備されました。孔子を祭る儀式「釈奠」が挙行されたのもこの孔子廟です。
その後、孔子廟は、儒教の伝播に伴い、中国国内はもとより、東アジアの儒教文化圏にも建てられていきます。建物には一定のルールがあり、神として、また王として祭られた孔子のために、皇帝建築様式が取り入れられました。
例えば、黄色の屋根瓦。中国では、五行思想により、黄、青、白、黒、赤の五つの色が尊ばれましたが、中でも黄色は最も高貴な色とされ、この色を屋根瓦として使うことができたのは皇帝のみでした。また大成殿の柱には龍の意匠が施され、これを龍柱と言いました。龍も皇帝の象徴です。
孔子廟にはこうした様式が取り入れられていて、それは台北の孔子廟でも同様でした。ところが、曲阜の孔子廟とやや異なる点も見いだされます。大きく反った屋根。またその上の両端にあるポールのようなもの。これは何でしょうか。
実は、今から2千年以上前の故事に由来しています。秦の始皇帝は、中国を統一した後、思想統制を始めます。有害図書を焼く「焚書」、役立たずの学者を殺す「坑儒」です。あわせて「焚書坑儒」と呼ばれ、始皇帝の悪逆性を示す蛮行だとされます。
この内、焚書とは、すべての書籍を焼いたというのではなく、歴史書・技術書・暦書などの実用書は除外されました。儒家のように秦の法治主義を批判する思想については徹底的に弾圧されました。そこで当時の儒者はその災難を免れるため書物を屋根の上に隠したというのです。それがこのポールで、これを「蔵経筒」といいます。経(文献)を蔵しておく筒という意味です。
本を隠すために、なぜこのような形の筒が偽装されたのでしょうか。それは、当時の本の形が筒状だったからです。当時の書物は、「冊」の形をした竹簡に墨と筆で記し、横紐で綴じ、それを巻物のように巻いて保管・携帯していました。本を隠そうとすれば、筒状の入れ物が最も適切だったということです。
もっともこれは伝承で、本当だったかどうかは分かりません。ともあれ、秦の始皇帝の焚書坑儒が孔子廟の造形に影響を与えるほど、中国世界には衝撃だったということは言えましょう。

孔子廟